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不登校ではなく、選択登校。そんな子どもの本来の自主性を尊重する新しいフレネ自由教育のフリースクール。

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フレネ自由教育とは

フレネ教育学とは?

フレネ教育とは、セレスタン・フレネ(フランスの教育者 1886~1966)の名前からきている。

フレネ教育者国際集会 1998パンフレットより要約してみましょう。

※印は、代表木幡の注です。

教え込みを主とする伝統的教育学の克服を目指したフレネの教育学とは、あくまでも子どもを基点とし、主体とする教育学であり、なによりも現場から生まれてきた教育学であるがゆえに、具体的実践と結合した堅実な教育学であるということができます。

フレネ教育学は、子どもを主体とし、具体的実践を重視します

自由作文

天下り的テキストの押し付けを排し、子どもに表現を返すところからフレネ教育はスタートします。

自分の生活を素材とした作文や自由研究の発表と討論など行います。

今、話題になっているフィンランドの教育もほとんどこれと同じスタイルです。

学校印刷所

子どもたちが自分の声で語ったことは共同批判を経て印刷されます。

印刷物をテキストとして使用します。

現代ではパソコンやインターネット技術が発達しているので「印刷」にこだわる必要はありません。フレネの生きていた時代に比べ、総合的学習は飛躍的に向上しています。ジャパンフレネでも子ども達は、インターネットを駆使し、さまざまな調査をし、自ら文集も作っています。

学校間通信

表現とコミュニケーションの組み合わせにより、学校生活と日常生活との結合を確かなものとします。

個々の表現、マイペースの学習は、互いのコミュニケーションのなかで位置付けられ、鍛えられます。

他地域とのコミュニケーションで共同研究が展開していきます。

これもまたインターネットで飛躍的な向上が望めます。

学習の個別化

基礎・基本を獲得していくための学習は、個々のレベルに合わせた課題を個々のリズムで考えていきます。

そのためには、各教科の学習カードや教材ソフト、資料、道具類が手の届くところになければなりません。

教室はそのことにより、子ども達ひとりひとりがマイペースで活動する仕事場(アトリエ)となります。

ジャパンフレネのスペースには、さまざまな教材が準備され、一人一人のリズムで学習できるよう工夫されています。

学習プラン

毎週の時間割を自分で作り、達成状況も自分でチェックします。何をするかわかっているので、教師の指示待ちをする必要がありません。

これが一番難しい。指示待ちは簡単ですが、自己決定ほど難しいことはありません。

実験的模索

なにかを指示されたり伝達されるのではなく、なぜそうなるのかを子どもたち自身で模索していきます。

解決に至る過程と理解度が問われます。

これもジャパンフレネの基本の一つです。

学級共同組合

いきなり大人に頼ることなく、自分で学習を組織する子ども達は、互いの空間を自治の原則で組織していきます。

子ども達が自分達の「憲法」を持つことが必須です。

セレスタン・フレネについて

フレネ教育とは、セレスタン・フレネ(フランスの教育者 1886~1966)の名前からきている。

フレネがニースの師範学校で最終学年を過ごしていたとき、第一次世界大戦が勃発した。彼は、卒業を待たずに代用教員になり、そして戦場へと送られ、そこで毒ガスでしたたかに肺を侵され、70%肺切除の障害者となった。

彼は、自分が経験した退屈な学校生活と、悲惨な戦争への批判を胸に秘めて最初の赴任地バル・スール・ルー小学校に向かった。新しい教育を求めて、「解放された学校」グループに加わり、ドイツやロシアの学校を訪ね、スイスの新教育国際会議などにも参加する模索の道程が始まった。

表現を中心にすえた学習の開始

大声を出せないというハンディキャップを持ったフレネは、伝達本位の教育ではなく、こどもの生活、かれらの表現そのものを学習の中心にすえることに活路を見いだした。こどもが書く自由作文を手がかりにそれぞれの研究へというコースである。そのために印刷機が導入され、プリントを交換する学校間通信が始まった。こどもたちが教科書に頼ることなく自分の力で研究を進めていくためには参考資料が必要だ。そこから、資料カードや小冊子が整えられることになり、学級文庫 Bibliotheque de travail が誕生した。

自己訂正式カードとクラス自治の実践

こどもたちは自由研究だけでなく、計算や文法のシステマティックな習得もしなければいけない。しかしそれは画一的に強制されるのではなく、個々のこどもが自分のレベルに合わせて自分のリズムで学習し、自分自身で誤りを訂正できることが望ましいとフレネは考え、プログラム化された自己訂正式自習カードが作成された。ここから、自分でつくる学習計画表が生まれた。

自らのイニシアティブで学習を進めるこどもたちは、その学習が行われる場=クラスの自治を確保しなければならないということで、学級協議会が組織されるようになった。教育における民主主義がこのようにして形成された。

フレネ教育の拡大

同じ時期ヨーロッパでは、ロシア革命への恐怖を煽りつつファシズムが台頭し蔓延しつつあった。極右勢力の策謀で、フレネの実践が標的とされ、学校騒動が仕組まれる。その結果下された「病気休職」「配置転換」という懲罰的な処分をフレネは拒否して退職。1935年、実験学校を設立した。

このフレネ学校が、その当時すでにヨーロッパ各地に拡大していたフレネ教育運動の拠点となり、内戦下のスペインから避難してきたこどもたちや教師も迎えた。

第二次世界大戦が始まった翌年、フレネは逮捕され強制収容所に送られ、フレネ学校も閉鎖された。18か月の拘留を解かれたフレネは、対独地下抵抗組織マキ団に身を投じレジスタンス活動を続けた。

戦後、サンポール事件をモデルとした映画『緑の学園』などでフレネの知名度は高まるが、一切のドグマの注入に反対し、あらゆる主義や無党派の教師をも結集する開かれた教育改革運動を主張するフレネに対して、執拗な攻撃を加えた共産党と絶縁することになった。

この混乱を越えて、フレネは1957年、現代学校運動国際連盟(FIMEM)の創設を提議し、実現する。

1966年10月8日、死去。遺体は生地の村に埋葬された。70年の生涯だった。

1996年、彼の生誕百年記念行事が盛大に行われ、ユネスコもそれに協賛した。